送れなかったメール

送れなかった未送信メールを載せてます

小説

田中さん

 

小説を書きました。
田中さんが言ってくれた言葉がどんなに凄い言葉なのか色んな人に伝えたくて、小説にしてみました。
文才がないのでオリジナルでは沢山の人に見てもらえないので、キャラクターを使いましたが。

 

それを読んだ母親が、「この男の子はいいとこの坊ちゃんだって嘘ついてたけどそうじゃなかったんだね」と言ったことに驚きました。
まさかそんなふうに読みとられるとは思ってもみなかったのです。

 

男の子は、虐待されて、産まれたことすら否定されて、捨てられたけれど母親を嫌いになれなかったから、嘘の幸せな記憶を作ったんです。
悲しかったから、悲しいという弱味を見せまいと嘘を作ったんです。
私は不幸の人が幸福なふりをするのがどんなに難しくて傷つくことなのかを伝えたかった。
そしてその嘘の向こう側で泣いてる過去の自分まで愛されることがどんなに凄いことか伝えたかった。

 

不幸を見せるより不幸を隠すほうがずっと辛いって母親は知らなかったんですね。

金曜日

田中さん

田中さんに伝えないメールを書くよりも、伝えるメールを書いていたい。
メールを書くよりも、1分でいいから電話で声が聞きたい。
電話をするよりも、一目でいいから会いたい。
会って別れたら、別れた瞬間から次に会える日を待つ。

これが多分好きという気持ちじゃないですか、田中さん。

父親

田中さん

月末ですね。
さぞお忙しいところでしょうと思います。
お疲れ様です。

父親に、不倫相手のことがどれくらい大事だったのか聞きました。
とても大事だったから不倫した、今でも後悔していないというのがその答えです。
私はこれを見たとき、心の底から父親を許すことができました。

もし父親が不倫しなければ、母親が鬱にならなければ、私を通して喧嘩をしなければ、別の未来もあったはずなのにとずっと怒りを感じていました。
同時に愛してもいました。
むかし愛してくれた記憶がずっと残っていたからです。
父親を人間として許したとき、私が貰えなくて怒り続けた愛情や、父親がくれたやさしい記憶も全部無しにして、父親という存在でなくて人間として見つめなおしました。
その人はもう私が執着する相手ではありませんでした。

私が頑ななのを見て、ある人は私を変えたがり、「変わることも美しいことだと思う」と言ってきたことがあります。
変わるのは美しい美しくないの問題ではありません。
その時も思いましたが、今一層感じます。
父親として愛していた人を愛し続けることをどれだけ私が変えたくなくても、人として許したとき、憎しみと執着は消えて、変わってしまいました。
もう私にはあの人はただの人です。

永遠に続く思いとか、死んだ後にもずっと同じ感情を持ち続けるとか、そういうものに憧れていました。
相手が私に「別れ」と「惜しみ」を感じたとしても、私だけは知らないまま愛していられる自信がありました。
今は、人の言うように、変わるものなんだと思います。
記憶や、その記憶に付随する感情が、どれだけ大切で、変えたくないと願っていても、変わってしまうのかもしれません。
記憶は悲しいけれど、確かに大切だったのです。

私の文章は長たらしくて読みにくく、わかりにくいと思います。
でも、こういう話は他の誰にも通じない話で、私にとっては大事件でした。

さよならだけが人生ならば

田中さんが別れを惜しみたがる、他人の門出を祈りたがるのは

 

(「いつか別れる。でもそれは今日ではない」)


それっぽい言葉で満足させようとしてくるこういう本のこういう言葉に聞こえてならないのです。
勿論、田中さんの人生の中で色々経験をした上での考えなのでしょうが。